猫の地球儀

猫の地球儀 焔の章 (電撃文庫)

猫の地球儀 焔の章 (電撃文庫)

猫の地球儀〈その2〉幽の章 (電撃文庫)

猫の地球儀〈その2〉幽の章 (電撃文庫)

イリヤの空の作者つながりで購入したけど、やっぱり相当に出来が良くて面白い。なので6年遅れで面白い面白いと騒ぐことにする。

以下致命的なネタバレあり


その中でも、特にトルクでの神話や噂の扱いが印象に残った。本当はやっぱり楽の死以降のストーリーの急転直下ぶりが最も印象に残っているのだけど、そういう派手な仕掛けに反応してしまうのはなんだか癪なので、トルクでの神話や噂について考えてみることにする。
そもそも考古学者が「ストーリーメイカー」というのもずいぶんなネーミングだとは思うけど、そのストーリーメイカーが発見というか考案というか、まあ確立しているのが「三段階至天航路」とか「生命太陽儀発生説」という今でいうところの世界は巨人が支えていてその下には亀がいるというような理論だ。面白いのが、その後のゴキブリを飛ばして生命太陽儀発生説に異論を唱えたら粛清されたことをもって、神話に盲従するのではなく、仮説と実験によって世界を検証することは素晴らしいということでは全くなくて、むしろその後、世界を検証しようとしたこと自体が神話に回収されている、つまりは現代では神話ですら比較や分析によって科学に回収されているのに、トルクでは逆に科学ですら物語ること、情報の逸失によって神話に回収されているところにあると思う。この神話への回収ぶりは朧が最後のスカイウォーカーであるということにも関係していて、「客観的」に見れば幽が居るんで最後のスカイウォーカーというのは間違いだし、そもそも朧は研究の全てをクリスマスに託したけど、それでもやっぱり朧は最後のスカイウォーカーで、それは自分でまだ見ぬ最後のスカイウォーカーを永遠に見ることはなかったからだろう。
焔の方も、先代ドルゴンである斑の風評はもの凄く膨らんでいたし、焔がドルゴンになったらこれまた風評が明後日の方向へ膨らんでいた。これはもうスパイラルダイバーのチャンピオンというような扱いではなくて、むしろこの世の災厄を一身に背負って代々継承していく祟り神みたいな扱いだ。楽がやっていたしりとりでの魔除けや、ビリビリ尻尾のキジトラ円に円伎丸という名前が付いていたりして、おそらくキジトラ円の方の名前は忘れ去られていくというのも、やっぱり一種の神話だろう。
このような、先も後も見えないからこその神話というものは、まさにストーリーをメイクしているんだけど、だからといって決して虚構ではない。焔が幽に向かって、楽が死んだときに「地球儀に流れ落ちていく光は何の光だ。楽の魂はいま、どこで、どうしている」と言ったけれど、その答えは間違いなく地球儀に落ちていくゴミの光だ。でも、焔が楽を救われてほしいと思う限り、ゴミの光は地球儀へ旅立つ楽の魂になり得るだろう。見えないからこその虚構によって救いを志向した焔と、見えるからこその実体によって地球儀に降り立った幽、この2匹が最後どうなったのかというのは不明だけど、不明だからこそ、無事であるということを想像したくなるけど、その想像は神話であり、メイクされたストーリーであり、虚構なのだろうか。