雑文

昨日のエントリ(http://d.hatena.ne.jp/kojiy/20060727#p1)で面倒だったので、さらりと「相田裕はニンフェットとピグマリオニズムを混同しててそこが逆に面白い」と言ったけど、なんだかここら辺の性倒錯について書く気が湧いてきたのでもう少し突っ込んでみることにする。

現代ではロリというものは完全に商品化されていて、猫も杓子もロリというような風潮で、むしろ一人前のオタクならロリなど嗜んでいて当然だというレベルかもしれない。だけど、そんな振る舞いとしてのロリとは別に、少数ではあるが確実に真性のロリコンというものがいる。この真性ロリコンに共通するものとして、いい歳した男が少女に心奪われて、その心奪われている事実にのた打ち回るという視点があって、真性のロリコンは決して幼女にハァハァというものが本質ではなく、むしろそれは別の本質からもたらされた単なる表現としての一形態であるといいたい。
では、その別の本質とは何なのか。その本質はロリータではなくニンフェットと呼んだ方が分かりやすい気がしていて、そもそもなぜニンフェットは十代前半の少女に宿るのか。世間ではよく成熟出来ない男性が無力な少女を云々という言説で説明されるけど、それは完全に間違っていて、十代前半の少女には、少女と少年、貞淑と淫乱、大人と子供、無垢と残酷といったありとあらゆる二律背反が同時に存在するからこそニンフェット足りえる。例えば、十代前半では少年と少女で体の作りがかなり近づく年齢で、少女が走る姿はおそらく同時に少年が走る姿を思い起こすだろうし、肉体的には初潮を迎えて妊娠する可能性を持ち、いつか破られるという意味において貞淑さが逆に淫乱さを際立たせる。また、少女が見せる妙に大人っぽい分別のよさなども少女が持っているという逆転が魅力的なのであって、大人が大人っぽくても魅力的でもなんでもない。このように、見方を変えるだけで劇的にその性質を変える様々な概念を同時に少女は持っていて、さらにその少女自体が確実に時間の流れで失われてしまうという儚さ、この美しさがニンフェットとしての美しさだと思う。
もう一つ、重要なものでニンフェットの元になったであろうニンフの神話があって、どこかに迷い込んだ人間がこの世のものとは思えない程に美しいニンフと出会い、交わるけれども、精霊と人間なので必ず別れなければならないというものがある。ここで表されているのは、目の前に存在する、手を伸ばせば届く距離にあるユートピアが人生の一点において交わることができても、必ずその希望は砕かれなければならないということだ。ナボコフの「ロリータ」でも、ロリータは主人公の下からいなくなり、若い男と同棲をして子供を宿し、絶望した主人公は若い男を殺害し、投獄された後に獄死するという顛末を辿る。
このように、一瞬ではあるが目の前に現前する理想の美としての少女と、その理想の美としての少女と同一になることは許されず、しかもその希望は確実に打ち砕かれる宿命にある男の視線、これが古典的なロリータであり、ニンフェットである。
なので、ニンフェットは二律背反、もののあはれ、現実の女性の特徴といったことを理解する程度には成熟、自立した男性による視点でしかありえず、しかも徹頭徹尾観念でしかありえない。だから、当然成熟出来ない男性云々という言説は成り立たないし、理想の美というものが持つ暴力的な引力に悩まされることがあっても、男性側から暴力的に少女に働きかけるということもない。なぜならば、暴力的に働きかけた時点で、それまで存在していた複雑で多彩な美というものが単調な肉欲一色に染め上げられてしまうためだ。

一方のピグマリオニズムは、神話で王様が現実の女性に絶望して、理想の女性彫刻を作ったら神様の力で魂が宿って、その女性と結婚したという話が基になっていて、これはむしろ、王様が女性に絶望して、彫刻を作ったら神様の啓示を受けたと王様が大喜びして、その後一生その彫刻とブツブツ話をしながら暮らしました。めでたしめでたし。というように読んだ方が分かりやすいと思う。要するに人形愛とはこういうことだ。これをキモいの一言で切り捨てるのは簡単だけど、結構色々な示唆に富んでいて、例えば現実を遥かに凌駕する女性彫刻が作られるあたり、技術信仰、機械信仰を表しているというようにも解釈できるし、理想というものは観念の中でしか存在できないものなのだというような解釈もできる。その他にも原初的な宗教の発露や、人の認識とは何ぞや?とか幸せって何?とかにも繋がってくる。
まあその中でも際立って倒錯しているのが自分の理想をモノに投影しているというところだろう。このように、無制限な妄想を物言わぬ、心を持たぬモノにぶつけてそれに陶酔するというのは完全にオナニーで、本質的に人形愛とは自己愛、ナルシシズムであるとされているようだ。さらに、人形の物体性、不毛性からネクロフィリアペドフィリアといったイメージも簡単に連想できて、むしろ世間一般で言われているロリコンピュグマリオン・コンプレックスであり単なるナルシシズムだろうと思う。

ここまでが前置きで(長すぎ)、GUNSLINGER GIRLではこのニンフェットとピグマリオニズムを完全に混同していて、ある部分では少女に対してピグマリオニズム・ネクロフィリア的アプローチをして肉欲を満たし、またある部分ではニンフェット的アプローチで形而上学的欲求を満たしている。これは非常に都合が良くてある意味ではグロテスクな、またある意味では相当に冴えた混同の仕方で、もしかすると相田裕だけがニンフェットとピグマリオニズムを混同しているのではなくて、現代でいう商品化された「ロリ」という概念がニンフェットとピグマリオニズムの混同をしているような気がしてきた。